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ハワイでライフガードという職業がまだ確立されていなかった1968年に、リチャード・ K ・ケアウラナは当時の知事によってホノルル・シティのライフガードに任命された。
以来 1996年まで彼はマカハ・ビーチのライフガードとしてハワイアンの伝統が息づくマカハの海を守ってきた。 |
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バッファロー・ケアウラナ。本名はリチャード・カロル・カラニ・ケアウラナ。
バッファローは 1934年9月2日、ホノルルで生まれた。 |
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十代をほとんどサーフィンで過ごしたバッファローは、19歳になってからは軍隊の入隊検査を受け始めた。中途半端な生活が少々嫌になってきてもいたし、軍隊に入れば根性を鍛えなおしてもくれると思ったからだ。1955年陸軍への入隊が許可された。
その後、軍隊を除隊してしばらくした後、
マカハ・ビーチの公園管理人の仕事をすることになった。この仕事をバッファローは8年間続けた。
その間、彼はビーチで何人の命を救ったことだろう。ライフガードがいなかった当時のビーチの安全を守り続けたのは、公園管理人の彼だったのである。
1968年、バッファローはオアフ島西海岸で初めてのプロフェッショナルのライフガードとなった。しかし、ビーチの外のマカハの町々、ワイアラエやナナクリの状況は悪化一方だった。サトウキビを中心とした農業は衰退し、それにかかわる産業も衰弱した。
失業者の数だけが増加していった。 |
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マカハに渦巻く貧困の犠牲となったのは子供達だった。親達は生活するのに精一杯で、子供達の面倒をみるまで手が回らなかった。また、過程が崩壊して放り出されたままの子供達も多かった。
犯罪を犯す子供、麻薬やアルコールに手を染める子供達が目立ってきていた。バッファローにとってこれは胸が痛む問題だった。
「せめて子供達には何か夢中になれるものを与えてやりたい。」
この問題に対するバッファローの答えはサーフィンだった。マカハが誇るビーチと波こそが子供達を救うと考えたのである。彼は子供達にサーフボードを貸し与え、なんとかサーフィンの楽しさを教えようとした。
それが 1977年から始まった「Buffalo Big Board Surfing Classic」だったのだ
その第一回の大会は、ハワイ古来のビックボードを愛するサーフィンの集いではあったが、同時にコミュニティーの盛大な祭りであった。
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ワイキキのビーチ・ボーイ達をはじめ、 たくさんのサーファーが集まった。サーフィンのコンテストも単なる波乗りの競技ではなく、遊びの要素を十分に取り入れた
老若男女、体形などに関係なく楽しめる種目と内容にしたショート・ボードが
趨勢であった時代にバッファローはあえてロング(いやビック)・ボードのイベントを企画し、それを成功に導いたのである。
しかもマカハ中を巻き込む形として・・。
以来、このビック・ボード・サーフィン・クラシックは毎年2月に開催されるようになり、今年で既に30回以上となる。
今回もバッファローファミリーとマカハの人々を中心に大会は運営され、参加者の中心もコミュニティからの人々だった。
一方、マカハのコミュニティの中からは、子供達自身が企画するサーフ・ミート「ケアウラナ・ジャム」も生まれた。バッファローの願う、サーフィンによる子供達の健全化は徐々にではあるが成果を表しつつある。
血の気の多かった若い頃のバッファローは、数々の武勇伝を残している。
彼の荒ぶる魂が人に彼を「バッファロー」と呼ばせたのかもしれない。
その彼は公園の管理人時代を含めた 34年間勤め上げたライフガードを引退し、今はビーチの木陰で仲間と語り合い、歌い、そして波に乗る毎日を送っている。
それは静かで落ち着いたものに見える。しかし彼は、未だにマカハの人々から必要とされている存在なのだ。
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人々はまだ 「静かなる野牛」 の存在と力を重く、そして心地よく感じているのである....。 |
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